常識と非常識の線引き

常識と非常識の線引き


恥をさらすようですが、先日入院している知り合いのお見舞いに行った時の話。

知り合い:「ここはマンショウ(満床)らしいよ。」
私:   「マンショウって何?」
知り合い:「え~、そんなことも知らないの(笑)?これだから外国人は困るね。」

こうしたことは、私にはよく起きます。言われ易いキャラクターということはもちろんありますが、昔からとにかく分からないことはあまり深く考えず聞いてしまう。もちろん私だって恥ずかしい思いは出来ればしたくありません。しかし帰国子女の私には一般的な日本人として「何を知っていなければならず、何は知らなくても良いか」、つまり常識と非常識の線引きが分からないのです。今ではこのように言われても気にならないようになりましたが、MBA留学するまでは外国人呼ばわりされるのが嫌で嫌でたまりませんでした。聞くのを控えていた時期もありました。

この常識と非常識の線引きについては、多くの日本人は直感的に分かるといいます。本当にみんなの常識が一致しているかどうかはさておき、この「何を知っていなければならず、何は知らなくても良いか」という考え方自体が英語を使う際、大きな問題となります。この「常識を共有する」という考え方はいつしか「知らないこと=恥ずかしいこと」に発展してしまい、さらに「聞くこと=恥すべきこと」に行き着いてしまうところに根の深さがあるように感じます。「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」という諺がありますが、日本では「聞くは一時の恥...のみならず一生の恥」の方が近いでしょう。先日も学生時代の仲間内で集まった時、「大塚は千葉県の場所も知らなかったんだよ。」と二十年近く経った話を今でも持ち出されることからも常に発言に注意しなければなりません。そう言われ続けると怖くて何も聞けなくなってしまいます。本当に常識が共有されていれば問題はありませんが、この常識の線引きが人によって微妙にずれていることが、問題をさらに複雑にするように見えます。

私がグローバル人材の育成に関わる時、まずこうしたマインドをリセットすることからはじめます。私見ですが、多くの日本人が英語を使って話す際、まず世界の常識とは何か考え、その線引きを日本国内での常識と照らし、勝手に引いてしまう。または、その線引きが分からないので「聞く=恥ずかしいこと」のマインドセットのまま臨んでしまう。どちらにしても結局主張する以前に話の内容が理解できないまま終えてしまう。必要最低限の英語力も知識も教養も十分に持っているのにこうしたマインドを持っていない為に不幸が起きてしまうのです。私の「日本人は英語を日本式コミュニケーション方法で使用している」という仮説はまさにここから来ています。

しかし国際言語である英語は共通の価値観や常識というプラットフォームがない為に、「聞く」ということは「恥」ではなく「基本」になります。英語は世界中で使われていますが、シングリッシュ(シンガポール人の使う英語)、フィリピン英語、香港英語、白人英語、黒人英語、ヒスパニック英語など、使う民族の間で独自の進化を遂げています。よって常識等全くなく、聞かないと理解できるはずないのです。だからネイティブ同士の話を聞いていても認識のすりあわせる確認作業は頻繁に行われます。

こう考えると我々のコミュニケーション方法がいかに高度なものであるか分かります。前回のエッセーで書きました我々は無意識のうちに「相手に不快感を与えていないか」や今回の「これは聞いてもいいのか、あとで自分で調べたほうがいいのか」と裏の裏まで考えながら会話しいます。英語を使用する際のコミュニケーション方法は逆に単純で、そんなことを考える必要はないのです。でもこのマインドをリセットするのはいかに難しいか。。。毎回セミナーや生徒のレッスン音声を聞かせていただく度に痛感します。でもこれはトレーニングによって必ず身につくものです。身についたとしても日本語を使うときは使用してはダメですよ。それは身をもって保証します(笑)。


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