優れた日本人であるほど世界が遠のいていくワケ
ぼくたちは子供の頃から、わがままを言わず、言いつけに従い、迷惑をかけない人になるようにしつけられずきた。そうやって生きてきた人が、自分の感情や想いを人前で自由に表現することはむずかしい。常に自分を監視し、コソトロールし、抑えつけてきた。怒り、憎しみ、悲しみなど、激しい感情にブレーキをかけてしまう。思いっきり喜ぶことすら、ためらってしまう。自己防衛本能的にブロックして、その感情の領域に入らないように自分を規制してしまう。
- 今井 純
よく企業のコンサルタントとして海外とのビデオカンファレンスに同席させていただいたり、ワークショップをファシリテートしたりしますが、出席している日本人の多くは無表情で下を向いているケースが多い。米プリンストン大学の研究によると「人は相手の好感度と能力を顔を0.1秒みるだけで判断する」というだけにこれは本当にもったいない。
そこで、一番始めに指摘するのが、顔を上げてもらい、話している相手をきちんと見ること。そして分からなければ首を傾げる。面白いと思ったらきちんと表情に出す。グローバルコミュニケーションにおいて言葉以上に感情表現が大切になります。きちんと表情に出さないと相手が不安になります。でもこれを実践しようとすると本当に難しい。
先日わんぱく相撲大会をテレビで見ていて、相手を倒してガッツポーズをした小学生に対し、行事が「負けた相手に失礼なのでやめなさい」と注意、小学生がシュンとしていたのをみましたが、従来我々が美徳として考え、家庭、学校、社会全体で作りあげた価値観・教育システムが、世界に出て活躍する際、足かせになってしまうことがあまりに多いような気がします。
冒頭の引用。「自由になるのは大変なのだ(今井 純著)」という最近読んだ本の中からの抜粋で、元々は日本でインプロ(即興芝居)というあまり聞かないジャンルの第一人者が書いた本ですが、「日本人のグローバル化を阻むマインド」についてこれでもかというくらい鋭い指摘が満載でとても参考になります。
例えばいまグローバル企業のCEOが社員に求めるスキルとして必ず上位にあげる”Creativity (創造性・自由な発想)”。今井氏はこれが潰されていく過程以下のように解説します。
もともと、ぼくたちは人の意見や評価や視線に左右されやすい国民性を持っている、一般的な意見や行動と違うと、激しく非難されてしまう社会で育っているのである。指導者の価値観や好みによって評価されることで、生徒は縮こまり、ごまかし、堂々と自分自身でいられなくなってしまう。表面的に繕った、つまらない、ありきたりの表現者になっていく。自由、柔軟性を身に付けることなく、本来の持ち味を活かすことなく、型にはめられ、そのまま固まっていく、商業用に仕込まれ、つくり上げられていく。
先日友人(学者)が「大学で研究してみて、『自由な発想』というものに欠けている自分というのをいやと言うほど味わったよ。『自由に自分で考える』ってどうやったらいいのかわかりません。って思ったもの。そして、それから脱出するのはかなり難しい・・・。」と言っていたのも頷けます。
そもそもこうした散々抑えつけられてきた社会構造の中で育った者に対して、突然「自由な発想」を出せと言われても無理に決まっています。本人当惑してしまい当然です。何だか矛盾を感じます。
ただ、こうした社会だからこそ、震災時、スーパーやコンビニ等で略奪が起きない、世界が驚き、賞賛した日本人の品格。こうしたものを犠牲にしてまでと思うとちょっと考えさせられます。いや、犠牲ではなくこれは共存出来るものなのか。いずれにしても今は優れた日本人になろうとすればするほど、世界を舞台に活躍するスキルが削がれているような気がしてなりません。
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