議論の出来ない識者
日本人はコミュニケーションにおいてメッセージの真偽や当否よりも(中略)『何が正しいのか』という問いよりも、『正しいことを言いそうな人間は誰か』という問い方が優先する。そして、『正しいことを言いそうな人間』とそうでない人間の違いはどうやって見分けるかについて客観的基準がない。だから結局は「不自然なほどに態度の大きい人間」の言うことが傾聴される。
–日本辺境論(内田 樹著)
昨年秋、「もっと若者に政治に興味を持って欲しい」とある著名な方の呼びかけで数百人の若者(大学生が中心)を集め、政治家・学者・新聞記者の計7-8名と大学生から20代のビジネスパーソン4-5名の計10数人程度を壇上に上げ、「どうしたらもっと若者が政治に興味を持ってもらえるのか。何が問題になっているのか」をテーマとしたシンポジウムのお手伝いをました。
これ、もう1年以上前の話で、ずっと私のブログ帳の海底(帳低!?)に埋まって死にかけていましたが、先日紹介しました日本辺境論の冒頭の一節を読み「なるほど!」とちょっとしたA-ha moment (気づきの瞬間)があり、記事を生き返らせました(笑)。
普通にはじまったこのシンポジウム、ちょっと度胸のある若手社会起業家がある有名な社会学者の発言に異を唱えた瞬間、場が凍りづきました。なんとその社会学者が突然大声で怒鳴りだし、議論している中身には一切触れず「お前にそんなこと言う(聞く)資格はない!」と大変威圧的な態度で怒り出したのです。その起業家もなかなかのもので「それではその資格があるかどうか会場の皆様に聞いて見ましょう」と応酬。するとその社会学者は狂ったように怒りだし、「お前は黙ってろ!」「黙れ!」と連呼。その学者のファンが客の中にいたのか何故か拍手が起きる。
結局この若者は場の空気に負けてしまい、シュンとしてしまう。そして議題は何事もなかったように変更され、というか結局当初のテーマである「どうしたらもっと若者が政治に興味を持ってもらえるのか。何が問題になっているのか」が曖昧なまま、シンポジウムが終わってしまい、非常に後味の悪いものになってしまった。少なくても私にはそうした印象がしました。
国際舞台ではこのようなことはまず起こりません。異を唱えられたら前向きに分かりやすく答える姿勢を常に示すという暗黙のルールがあります。つくづくこれが起こったのは日本で良かったと思うと共に、どんな識者でも、本が売れてても、コミュニケーションがきちんと図れないこの人は世界には出て行けないと、出してはいけないと感じたのを良く覚えています。
終了後、各識者がテーブルごとに別れ、30分交代で若者が入れ替わる形態の懇親会をやりましたが、最後のまとめとして識者一人一人がイベントの感想を述べていた場面で、ある新聞記者かテレビ評論家だが忘れましたが「人が入れ替わる度に全く同じつまらないことを聞かれ、バカバカらしいと思いながらも答えていた」と全員の前で話していたのにはびっくりしてしまいました。そう思ってるのであればその時に言えばいいのに。。。このシンポジウムの趣旨をキチンと理解していたのか大きな疑問を持ちました。
「肩書きや国籍に関係なく、世界中の人々とオープンなCommunicationが取れる人材」をグローバル人材と考えると英語以前にせめて日本から飛び出したときは(出来れば日本にいる時もそうして欲しい)地位や肩書きを捨てて、「何が正しいのか、何がMake senseするのか」を中心に考えないとまともなDiscussionは出来ない。
こうした古い考えを持つ人には一刻も早く引退してもらい、若手が個性を思う存分発揮し、世界を舞台に活躍できる社会になってもらいたいものです。しかし、私が見るにこうした古い考えを持った人たち(頑張れば報われる黄金時代に生きてきた人たち)が若手の個性を殺している気がしてなりません。そうしておきながら「今の若者は。。。」なんて本末転倒のように感じてしまいます。
幸い私の周り、特に30代前半に個性豊かな、尊敬できる人たちが沢山います。でも残念なことに世界に出て行こうとしている人たちは少ない。なんだかんだいっても日本は年間270~280兆円の巨大消費市場がありますからね。でもこうした人たちが世界を舞台に活躍して、若い人たちのロールモデルなって欲しい。そうした人を応援していきたいと日本辺境論を読み、あの1年前の嫌なシンポジウムを思い出し、ポジティブに考えようとしている自分がいます(笑)。
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